Twitterの宇宙クラスタの一部で絶賛されている、猫巻博士が主宰するNYAISASメールマガジン。ひょんなことから拙文を寄稿することになりました。テーマは「日本で宇宙飛行士を目指すということ」について。
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……まずは自己紹介。高知県のとある田舎町で生まれ、夏は近くの小川で水浴び、冬は稲を刈り取った田んぼで自分で作った凧を揚げる、というワイルドな環境の中で、一人で黙々と遊ぶのが好き、という子供時代を過ごしました。曾祖父に肩ぐるまされて近くの国道で東京オリンピックの聖火リレーを見たりしたのが幼いころの思い出です。家の裏の道は砂利道で、オート三輪が土煙をあげてぶっ飛ばしていて、ときどき道路脇の田んぼに落っこちてました。 二十世紀少年かクレヨンしんちゃんに出てくるような高度成長期の日本の原風景ですね。万博に連れて行ってもらえなかったのが悔しい。こんにちわこんにちわ。
もとい。
小学2年生の秋に仲秋の名月が皆既月食になりました。お団子を食べながら眺めていた赤く暗い満月。しばらくすると父の書斎にあった雑誌の表紙に赤い月の写真が目にとまりました。その雑誌の名は「天文ガイド」。何気なく手にとってパラパラとめくってみたら……
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続きはぜひNYAISASメールマガジンでお読みください。
[追記] NYAISASメルマガのバックナンバーがwebから見られなくなっているので、追記しておきます。
こんにちは、5thstar管理人です。Twitter上ではふぃふす☆すたぁ(@5thstar)などと名乗っています。この度、猫巻博士とのひょんなご縁からNYAISASメールマガジンに寄稿させていただくことになりました。機会を与えてくれた猫巻博士に感謝です。すべてはNYAISASのために。
今日は「日本で宇宙飛行士を目指すということ」というお話です。
まずは自己紹介。高知県のとある田舎町で生まれ、夏は近くの小川で水浴び、冬は稲を刈り取った田んぼで自分で作った凧を揚げる、というワイルドな環境の中で、一人で黙々と遊ぶのが好き、という子供時代を過ごしました。曾祖父に肩ぐるまされて近くの国道で東京オリンピックの聖火リレーを見たりしたのが幼いころの思い出です。家の裏の道は砂利道で、オート三輪が土煙をあげてぶっ飛ばしていて、ときどき道路脇の田んぼに落っこちてました。
二十世紀少年かクレヨンしんちゃんに出てくるような高度成長期の日本の原風景ですね。万博に連れて行ってもらえなかったのが悔しい。こんにちわこんにちわ。
もとい。
小学2年生の秋に仲秋の名月が皆既月食になりました。お団子を食べながら眺めていた赤く暗い満月。しばらくすると父の書斎にあった雑誌の表紙に赤い月の写真が目にとまりました。その雑誌の名は「天文ガイド」。何気なく手にとってパラパラとめくってみたら、めくるめくような天体望遠鏡の広告!
その日を境に私の人生が変わりました。
父親の書斎を漁って天文関係の本を見つけ出しては読み耽る日々。親も天文の新しい本をどんどん買ってきてくれるようになりました。身体が弱くて学校を休むことが多かったのですが、枕元に本の山を積み上げておいて、右から左へと順番に朝から晩までひたすら読みすすめていきます。読み方がわからない漢字があると片っ端から母親に「ここ読んで」とせがんでは読みを教わりました。昼も夜も頭の中は太陽系や銀河系のことばかり。
同じ高知県出身の彗星ハンター、関勉さんの「未知の星を求めて」という本に出会ったのもそのころです。太陽系の中を放浪する新彗星を望遠鏡で探し求めて自分の名前をつけるというその姿に憧れ、いつしか彗星ハンターこそが自分の将来の職業だ、と思いこんでいました。どうやって食べていくというのだ(苦笑)
彗星の軌道計算を自分でやってみたくなって独学で三角関数を学び、当時まだ珍しかった関数電卓を使うために放課後、電器店の店先で何日もひたすらサイン、コサイン、タンジェントを叩いたりもしました。あとで知人から聞いた話では、電器店のおやじさんは当時「学校の宿題をやっているんだろう」と思って目こぼししてくれていたとのこと。
大学生になってポケットプログラム電卓を買った時も、大学院で研究室に配属されてコンピュータを使えわせてもらえるようになった時も、初めて組んだプログラムは彗星の軌道計算でした。愛は三角関数を越える(笑)。
そんな天文少年だった自分が宇宙飛行士を目指すことになるとは、子供のころは想像すらしてませんでした。病弱で運動音痴だったしカナヅチだったし…
「宇宙飛行士」という職業の選択肢を初めて考えるようになったのは1984年、日本で初めての宇宙飛行士募集のニュースです。物理系の大学院の研究室で同期の学生と「日本人が」とか「スペースシャトルが」とか「応募資格が」とか、わいわいと盛り上がっていました。実務経験三年という壁があったのでその時は応募しなかったのですが…
毛利さん、向井さん、土井さんの三人が選ばれ、毛利さんと向井さんのミッションが決まる中、1991年に二回目の宇宙飛行士募集の新聞記事が目にとまりました。「あれ?土井さんってどうなってしまうの?」
そこで思わずNASDA(当時)に電話をかけて「土井さんのフライトが決まってないのに次を募集するということは、土井さんはどうなってしまうんですか?」と係の人に詰問してしまいました。^^;
係の人によると、訓練スケジュールの都合でフライトの割当が遅れてはいるものの、ちゃんと土井さんにも順番が回ってくるとのこと。安心しました。
のちにヒューストンの若田さんの自宅でのパーティに招かれ、土井さんと初めてお会いして大きな手でがっちり握手されたときの感動は忘れられません。「この手であの人工衛星(スパルタン)を捉まえたのか」とか。「宇宙に行くまで長く待ちましたよね」とか。「衛星を待つ間、地球は、宇宙は、どんなふうに見えましたか」とか。万感の想いがこみ上げてきてもうね。
もとい。
宇宙飛行士受験といっても当時は全くといっていいほど情報がありませんでした。どんな検査があってなにが重要な資質なのか、NASDAは次の宇宙飛行士に何を求めているのか。わからなかったし、当時の私は知ろうともしませんでした。とにかく書類をすべて記入して、近所の病院で身体検査もすませ、とある決断の時を迎えました。その決断とは。
のちに若田さんが選ばれることになるその宇宙飛行士募集があったのは私が新しい職場に就職してからわずか1ヶ月目の出来事でした。「就職してすぐの転職活動では、さすがに上司もいい顔はしないだろうなぁ」と悩みつつ、でも思い切って相談してみてその上司が「うーん」と頭を抱えたのを見て、「ああ、やっぱりこの人に迷惑はかけられないよなぁ」と、書類の提出を諦めることにしたのです。
次にNASDAが宇宙飛行士を募集したのは4年後の1995年。その頃までには職場の雰囲気や上司の性格もわかっていたので、「これを逃したらもうチャンスはない。自分の人生のお試しとして受けてみるべ」と、4年前と較べるとかなり軽い気持ちで受験することにしました。
宇宙飛行士お受験というのは究極の転職活動です。応募書類にはそれまでの人生で自分が何を達成してきたのかを客観的にまとめてアピールし、さらにNASDAの宇宙飛行士として選ばれたら自分は何をするつもりなのかを表明する欄があります。この書類の準備だけでも何週間もかかる作業なので、将来宇宙飛行士になりたいと思っている人は年に一度くらいは自分の経歴をまとめて第三者にアピールする訓練をしておくといいかもしれません。
1次選抜がつくばで行われるという12月のある日、家族に筑波宇宙センターまで車で送ってもらって「じゃあがんばってくるよ!」と手を振って別れたあと、入り口の受付で「あの、宇宙飛行士受験に来ました」と告げると、受付のおじさんが「えっ?」
……私「えっ?」
10秒ほどその場で固まったあと、ふと我に返って受験票の入っている封筒の中の案内をよく読んでみると、初日の集合場所は筑波宇宙センターではなくてそこから5kmほど離れた某所。
携帯電話をまだ持っていなかったので家族を呼び戻すこともできない。
「ま、間に合わない?! ( ̄▽ ̄;)」
「た、タクシーを呼んでいただけますかっ?!」受付のおじさんに頭を下げて、やってきたタクシーに飛び乗って集合場所に駆けつけ、入り口前の植え込みをエイやっと飛び越えて、受付終了時刻ギリギリで玄関に飛び込むと、そこには白衣を着て時計を見ながら仁王立ちしているお医者さんの姿が。4年後のファイナリスト受験までいろいろとお世話になることになるM先生との運命的な出会いでした。
ホールに着くと、神妙な面持ちで検査着に着替えて待っている受験生が一斉にじろっとこちらを見ます。針のむしろのような気分で慌てて検査着に着替えて席に着くと「○○さ~ん~♪」と自分を呼ぶ声が。大学院生時代の同期生がそこにいました。え、君、アメリカにいたんじゃなかったっけ?(宇宙飛行士受験コミュニティは狭い!)
同期生とひとしきり昔話に花を咲かせながら健康診断をすませ、午後と翌日の筆記試験も終わり、毛利さんが受験生ひとりひとりと握手してくれて、「あー面白い経験だった、これが宇宙飛行士選抜かぁ」と感慨に耽っていると、ある日、NASDAから分厚い封筒に入った二次選抜のお知らせが届きました。
二次選抜では文字通り頭のてっぺんからつま先まで、健康に異常がないかどうかをNASDAの某施設にカンヅメにされて徹底的に調べられます。
二次選抜で50名ほど残った受験生は三つの班に分けられ、一週間を供に過ごすのですが、さらにその中でも受験番号の近いものどうしが同じ医学検査を回ることになります。その時に一緒になったのが星出君でした。
最初はぎこちなかった受験生たちも、医学検査の待ち時間の間にポツポツと自分の生い立ちや宇宙への想いを語り合うようになります。二次選抜のクライマックスとも言える胃と大腸の内視鏡検査を受け終わると「おなじ管を共有しあった兄弟同士」の奇妙に高揚した連帯感でグループの盛り上がりは最高潮になります。
一週間の特殊な体験を通じてすっかり仲良くなった受験生たちは、当時まだ珍しかったメールアドレスをお互いに交換し合って帰路につきました。合計三週間に渉って行われた二次選抜の三つの班それぞれでその班の連絡役が決まり、2班の連絡役が野口さん、3班の連絡役が私、全体のとりまとめを私が行うことになり、そこで連絡用のメーリングリストの名前としてみんなで決めたのが「5thstar」だったのです。NASDAの5番目の宇宙飛行士を目指す仲間たち。
二次選抜の結果通知を待っている間にも若田宇宙飛行士が最初のフライトを終えて凱旋帰国してきました。1班の連絡役をしていたYさんが若田さんの選抜の時のファイナリストでもある、というご縁で、若田さんの帰国記念パーティに5thstarのメンバーも呼んでいただき、初めてナマ若田さんとご対面しました。その時のお話の中でいちばん印象に残っているのは:
「無重力では空気が対流しないので、誰かのおならのなかに頭をうっかり突っ込んでしまうと、 と て も く さ い。」
二次選抜の結果は、とても薄っぺらい封筒で届きました。M先生が選抜の最後でにこやかにおっしゃった「みなさん今回仮に残念な結果に終わったとしても、ぜひ次回も挑戦してください。自分の足元をしっかりと保ちつつ。」という言葉をじっくりと反芻しつつ。虫歯の治療すらしないでいろいろと準備の足りなかった自分を後悔しながらも、「宇宙飛行士受験って面白い!これならちゃんとした準備をすれば、次回はひょっとしたらひょっとするかも?!」と、心ははやくも次の選抜へ。ここまでくると、もうすっかり受験マニアです。
まず虫歯の治療。他の受験生から薦められるままにジョギングシューズと心拍数をモニターする時計を買い求め、毎朝3kmのランニング。トレーニングジムにも通い始めてエアロビクスや筋力トレーニングと、苦手だった水泳をどうにか克服、スキューバの体験教室にも参加。ハーフマラソンやフルマラソンにエントリー、などなど。運動音痴だった少年時代の私を知る人からは想像を絶するようなスポ根人生が始まりました。
次の受験のチャンスは2年後に訪れました。日本の宇宙飛行士選抜の歴史の中でも最短の再受験です。
年齢のことをちょっぴり気にしつつも一次選抜、二次選抜と進み、またしても星出君と受験番号がほぼ同じ医学検査班となりました。その時の受験仲間とは「Issac98」というメーリングリストを立ち上げ、みんなで飲み会をしたりボーリングや陶芸教室に行ったり5thstarの仲間たちと同様、今でも楽しく交流しています。
二次選抜通過の報せを聞いた時は感無量でした。「やればできる」という感覚。NASDAが求める資質が自分にもある、という自覚。
最終選抜は、それまでの選抜とはまったく違う「とても濃密な体験」でした。8人のファイナリストが一週間をつくばにある閉鎖環境適応訓練設備で過ごし、ヒューストンに飛んでNASAや日本の宇宙飛行士と面接で話をしたりパーティで一緒に酒を飲んだり、東京の本社で理事長や役員との面接を受けたり。その間、ずっと感じていたのは「これで選ばれたら、日本を代表する宇宙飛行士を本気で貫けるのか」という問い。
結果通知の前日、8人は都内のビジネスホテルに集められて、翌朝の連絡を待つように指示されました。夜、銀座のとあるレストランに集まってワインを飲みながら、みんなでそれまでの思い出話に花を咲かせました。誰からともなく「明日の朝、誰が受かっても、落ちた人は例の場所に集まろうぜ」と。
落ちた人間にとっては、それが「誰が受かったのか」を知る一番早くて確実な方法だったのです。
翌朝、目覚ましが鳴るまでぐっすり眠っていた私は、ビジネスホテルの一室で室内を歩き回りながら連絡をまだかまだかと待ち続けました。事前に言われていた時刻よりも結果通知が1時間ほど遅れたのです。
「この結果次第で自分の人生が変わる」
それはじつに不思議な感覚でした。
それまでの人生が走馬灯のように浮かんでは消えます。お世話になった人たち。これまでに訪れたいろいろな場所。チャレンジャー事故。ヒューストンでお会いしたオニヅカ未亡人。家族のこと。職場の仲間のこと。受験仲間のこと。恩師のこと。
人生で最も長い1時間、とふと思ったとき、
「ジリリリーン」
ホテルの電話がひときわ大きく鳴り響いて、飛びついた受話器から流れてくる毛利さんの声。
「ゆうべはよくねむれましたか」
「はい、しっかり熟睡しました」
「君は今回、たいへんよくがんばったね。…」
そこからあとのことはあまりよく覚えていません。しばらく放心状態になったあと、おもむろに家族に電話をし、職場に電話をし、身支度をして「例の場所」に向かったような記憶が。
集まった顔ぶれを見て「ああ、星出君、古川さん、角野(当時)さんか。なるほどね」と顔を見合わる5人。
NASDAが宇宙飛行士に求める資質、それは一種のお見合いのようなものです。落ちた5人も「どこがダメだったから落ちた」とくよくよと悩むわけではありません。今回NASDAが求めていた資質はあの3人だったんだね、と。NASDAが次回、宇宙飛行士を募集するとしたら、また違った資質を求めるのだろうな。それはファイナルを経験した人間だけがもつ独特の「相場観」です。
日本で宇宙飛行士になるということ、それは、特別な人間であるということではありません。頭のてっぺんからつま先まで健康であるという幸運(治療して治るものは大丈夫です)、自分の人生の中でもっとも宇宙飛行士受験に適した年齢と社会経験を積んだタイミングで募集に出会える、という幸運。自分がそれまでに築いてきた社会経験が募集する側の思惑と合致するという幸運。同じ時に受験するライバルたちとの出会いやチームワークという幸運。家族や、職場の上司、同僚たちに応援してもらえるという幸運。
それら数々の信じられないような幸運をくぐり抜けて、宇宙飛行士は選ばれるのです。
幸運の女神を捉まえるには前髪を掴むしかない、といいます。女神の後ろ姿を追いかけているようでは間に合わないわけです。数多くの幸運も、よくよくみれば皆さんが普段の日常生活の中でこつこつと積み上げていくことができます。その努力は皆さんの日常の仕事や勉強でもきっと役に立つはずです。
次回、日本人宇宙飛行士の募集がいつになるか、どんな思惑になるのか、は現時点では誰にもわからないですが、女神の前髪を掴むにはどうすればいいか、日々の暮らしを振り返ってみるのがいいかもしれません。
「Think ahead. Be prepared.」
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それにしてもNASDA(当時)が私を選ばなかったのは今にして思えば正しい判断のような気がしています。もし私が宇宙飛行士になっていたとしたら、バイコヌールからのソユーズ打ち上げの当日にうっかりケネディ宇宙センターに現れていたかもしれません(滝汗
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