1998年度選抜の古川、星出、山崎(旧姓角野)の三宇宙飛行士の近況。
管理人はこの三人と一緒に旧NASDAの閉鎖環境にも入って同じ釜の飯を喰ったし、ヒューストンにも一緒に行ってシャトルシミュレータの訓練もしたし、若田さん宅のパーティにもお呼ばれしたし、STS-95の向井さんやジョン・グレンたちの報告会も最前列かぶりつきの特等席で堪能したし、東京での理事長や五代理事たちとの最終面接にも臨戦したし、発表前夜には都内某所のレストランに集まって将来変わらぬ友情を誓い合ったし、同じ夢を目指した「同期生」としての思い入れは人一倍、強い。と、自負している。
昨年7月のNASDA(当時)のプレスリリースにもあるように、昨年7月から9月までと、今年1月から3月と4月から5月まで、三人はモスクワ郊外の「星の街」でソユーズ宇宙船に習熟するためのアドバンスト訓練を受けた。
6月、モスクワからの帰国後、わずか10日間だけ日本に滞在して、今度はアメリカでの訓練が始まった。
6月7日、三人は文部科学省の宇宙開発委員会を訪問し、井口委員長、川崎委員長代理、松尾委員が対応。文部科学省からは木谷研究開発局審議官らが同席。宇宙飛行士と意見交換を行なった、とのこと。なぜこんな会談が必要だったか。この三日後には三人はアメリカに飛ぶことになる。
渡米の目的は9月から始まるNASAの次のミッションスペシャリスト養成クラス(通称ASCAN)に参加するため。9月でなく6月に渡米するのは、7月末までフロリダはペンサコーラの海軍航空基地で飛行機操縦訓練を受け、米海軍のT-34というプロペラ機(単発)で海軍式のナビゲーションを叩き込まれるから。通常は数ヶ月かかる訓練を1ヶ月半で、という、猛特訓らしい。その後、ヒューストンに移動。
とにかく宇宙へ飛ぶ前から宇宙飛行士ってのはやたらと忙しい。
1999年2月10日の合格発表からすでに5年半。私もそれなりに歳を取った。若い三人を選択したNASDA(当時)の決断は、その意味では間違ってなかったと言えるのだが、それにしても2003年2月1日のスペースシャトルコロンビア号の事故が、三人の人生と、日本の有人宇宙開発計画の未来を大きく変えてしまった。
1998年の宇宙飛行士募集の際、NASDA(当時)は、毛利飛行士から野口飛行士までの5人とは違って、この三人の新しい宇宙飛行士を日本で育てて、「Made in Japanの宇宙飛行士」として宇宙へ送り出すバラ色の?夢?(別名を『予算上の目論見』とも言う)を抱いていた、ふしがある。
二次試験の一般面接で、「もし選抜されたら海外に長期滞在するようなこともありますが、問題はありませんか?」と質問され、私が「はい、むしろアメリカなどでの訓練や生活がすごく楽しみです。」と素直に本音で答えた時、何人かの役員はあからさまにいや〜な顔をした。私はちょっとだけ「しまった」と思ったが、「でも自分という人間を偽ることはない」とばかりに開き直って、本音で面接を続けた。そのNASDA(当時)の夢?が、コロンビア号の事故によって、砕け散った。
6月16日付けのプレスリリースでJAXAが三人の渡米を追っかけるようにミッションスペシャリストの訓練を正当化したのは、じつはJAXAが「Made in Japanの夢」を完全に捨て去ったことの表明にほかならない。が、時事通信も毎日新聞もそこはそれ、あんまり深くつっこんで旧NASDA時代の古傷をえぐるようなおとなげない真似はしなかった。DSPACEの記事も「宇宙も「資格」の時代。」と優しくフォローしているし、古川飛行士も「訓練は次のステージへ」と、JAXAの方針転換をうまくフォローするコラムを書いている。
私個人としては「ほらみろNASAの輸送手段に頼ろうとする限り、ミッションスペシャリストの資格は必須じゃないかいわんこっちゃない最初からわかっていた」と当時の役員に言いたいところだけれども、こういう性格だったからこそ、選抜にも落ちるんですね。宇宙飛行士たるもの、なにが起きてもそつなくフォローしなきゃ。^^;
当時を思い出して憤って書いていたら、思わず文章が長くなってしまった。今日はこのへんで。昨日の的川先生との雑談で気がついた、私の情報収集上の大穴については、また明日。
Like a bridge over troubled water
I will ease your mind...
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